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■2003(H15).9/15.「尚古」。 中国山東省の田舎。釣りばかりしているので呂尚をおいて妻が去った後に偶然の出会いが待っていた。夢占いに従って狩りに来た文王は、いくらか話したこの人物こそ祖父が「国を助ける」と予言していた待望の老人と考えた。▼出世したので復縁を願って来た妻に「覆水盆に帰らず」(こぼれた水は元には戻らない)と帰した呂尚のことばが何故こんなに日本で有名になったのでしょう。祖父「太公」が予言して待「望」した人物なので「太公望」と呼ばれる彼は、文王だけでなく子の「武王」をも補佐しました。▼助言は的を得たものが多くその1つは水戸光圀に「大日本史」執筆を思い立たせるほど感動を与えたといわれます。紀元前8世紀頃、周王朝である武王が主君の「殷王紂」を攻めようとした時、それを踏みとどまるよう進言して助命追放された兄弟の話でした。謀反を不正義だと水戸黄門も書きたかったのでしょう。▼後の孔子は武王の行いを「仁」といえない(人の道に反する)としながら、同時に、武王の建国した「周」の国をお手本としたいと言いました。特に武王の弟である周公旦が担った周初の平和と隆盛の時代にあこがれました。これを「尚古」といいます。日本の封建時代の制度のほとんどはこの時代に制度化されました。西尾市に同名の庭園家屋があります。▼中国には自国の宗教はありませんから孔子の儒教は学問で全体として「天に選ばれた者が導かれて王になる」という考えです。「天命が尽きれば滅びるのであって攻めた者は正義である」という解釈で戦乱の中国思想「易姓革命」を支えました。孔子自身は無神論者で祈ったことが無いと書いています。次の支配者に都合のいい儒教は朝鮮、日本へと伝わりました。▼しかし、江戸時代中期「古事記伝」を書いて日本の国学を大成したといわれる伊勢の本居宣長は、本来の日本人に全くなじまないと儒教を批判しました。明治には福沢諭吉が封建制を打破するために儒教を批判しました。▼中国に起こった2大学問として、儒教では人の成長は「人為的に成長させる」を良しとするのに対して、同じく中国の道教では「自発的に成長させる」を良しといっている、ように思います。▼越してきた私にとって奇妙に感じるのは、「尚古荘」の隣りに京都から移築された「近衛邸」があることです。近衛さまはこの邸宅から同じ京都の西田幾多郎宅へ通われました。「善の研究」などを書いて「無」の哲学を主張する日本的哲学者としての西田先生を、近衛さまの側近が紹介したようです。▼社会主義思想に興味もった近衛さまを心配して奨めたようでした。のちに西田先生は鎌倉に屋敷を準備されて引っ越されたそうです。私は幸い京都の西田先生に書生した老先生を存じ上げているお陰で、西尾の旧近衛邸を身近に感じられます。▼近衛さまの聞かれた西田哲学では「意識が己自身を発展するのである」「考えの方向を決めるのは外界からの教えだけでなく意識の内面的性質によるのである」といわれてるように思います。▼このように大きく相反する「儒教的」縁故と「道教的」縁故を隣り合って一つの町の名所としている点に不思議で未知な感性を感じるのです。 (H15.9.15)
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